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今回取り上げるのは、一九二○年代の初めから一九四一年にアメリカが第二次世界大戦に参戦するまでの二○年間である。
では、なぜ、いま、六○年前のアメリカなのか。
それは、その時代のアメリカが、現代の日本に住むわれわれの姿を映す鏡のように思われるからである。
第一次世界大戦が終わってみると、アメリカは一転して債権国になっていた。
当時のアメリカの人口は一億二○○○万人、大恐慌直前のアメリカ経済は、巨大な貿易黒字と莫大な資本輸出という、現在のわが国と同じ国際収支のパターンをもっていた。
その上さらに、今回株価の大暴落が起こった一九八七年一○月一九日までの日本の株式市場の足どりは、一九二九年一○月二四日の「暗黒の木曜日」まで六年間のアメリカの株価の動きとぴったり一致していた。
しかし、そうした表面的な類似性のみならず、かつてアメリカを衝き動かしたのと同じ大きな歴史の流れに、いまわれわれは押し流されているように感じられる。
国際経済学者のキンドルバーガーによれば、世界大恐慌はアメリカが世界経済秩序に責任を持とうとする政策意志を欠いていたために起こったという。
パックス・ブリタニカのイギリスは、第一次大戦後ヨーロッパの復興を助け、世界の中央銀行として機能するには、既に衰退期に入っていた上に、戦争で経済的体力を消耗しきっていた。
代わって台頭してきたアメリカは、一九三○年代を通じてイギリスの責務を肩代りするだけの意志を欠いていた。
半世紀前の大恐慌は、こうした経済的覇権の交代期に生じた真空状態の中で、世界的規模に波及していった。
たしかに一九二○年代のアメリカは、強大な経済力を身につけながら、国際連盟への加盟を拒否し、さながら未成熟な一○代の若者のように自らの繁栄に陶酔し、富を国際的に分配するどころか移民にも輸入にも門戸を閉ざし、三○年代の国際通貨危機には、世界の金準備の四○%を抱えながら資金の流出に戦々恐々とし、ニューディール政策ですら確信をもって完全一雇用をめざしたものではなかった。
しかし、国としての政策意志は、結局、それを支え、あるいはそれを引き出す国民の意志に基づいている。
放縦と逢巡と内向の「大恐慌のアメリカ」は、そのまま、時代にせかされ、急流に翻弄された無数の人々の迷いと悩みの軌跡でもあった。
そして、アメリカが一九二○、三○年代の経験に学び、パックス・アメリカナの盟主として力強く立ち現れて来るのは、ようやく第二次世界大戦が終わってからであった。
そうしたアメリカの決断を促すためには、経常収支が恒常的黒字を記録し始めてから五○年という歳月と、その間に、莫大な資源を空費した大恐慌と、全世界で二○○○万人もの人命を失った大戦争という野蛮で残酷な儀式が必要だったのだろうか。
もしアメリカがもう少し早く国際社会に果たすべき責任に目覚めていたならば。
歴史の「もし」が無意味だとすれば、われわれは同じ過ちを繰り返さないよう努めるしかないであろう。
あれから半世紀、世界をリードしてきたアメリカ経済にも相対的な陰りが見えてきた。
その一方で、わが国は輸出においてもGNPにおいても、世界経済の一割を占める大国に成長した。
しかし、国内市場の開放、開かれた社会への転換、「国際公共財」への負担の増加など、諸外国からの注文や期待の高まりに反して、「うさぎ小屋」に住み、子供を受験に追い立てているわれわれには、豊かさも責任感の実感も乏しい。
思えば世界を取り仕切るようになってからのアメリカは、良くも悪くも「自由」「機会均等」「民主主義」「アメリカン・ドリーム」といったメッセージをもっていた。
しかし、「・パックス・ニッポニカ」(エズラ・ヴォーゲル)が話題に上るに反比例して、わが国では、ビジネスで成功するためのハウ・ツー以外に、日本はどんなメッセージを世界へ発信できるだろうかとの困惑が深まっている。
だからこそ半世紀前のアメリカをもう一度見てみたいのである。
一九二九年九月三十日のニューヨーク証券取引所では、ヒステリックな興奮もファンファーレもなく、平穏のうちに立会いが終了した。
取り引き出来高は四四三万八九一○株、一年前なら印象的な数字だったであろうが、二九年に入ってからではとりたてて驚くほどの大きさではなかった。
株式市場は既に一日六○○万株を超える取引をいく度か経験していた。
株は上がっていた。
その日までのわずか一八カ月の間に、電話の普及でアメリカ電信電話(ATT)は一・九倍、家庭電化製品のブームに乗るゼネラル・エレクトリック(GE)は三・一倍、シポレーでフォードを脅かしたゼネラル・モーターズ(GM)は一・三倍、流通革命の担い手モンゴメリー・ウォードは三・五倍、新しいメディアを提供するラジオ・コーポレーション・オブ・アメリカ(RCA)は未だ無配当のままで五・三倍、合併を続け巨大化するUSスチールは二倍などとなっていた。
しかし、第一次世界大戦終了後の一九一二年不況以来、株価はもう久しい間上昇を続けていた。
ダウエ業株平均で見てみると、二九年九月の平均株価は、八年前に比べて四・五倍、五年前に比べて三倍、三年前に比べて二倍になっていた。
人々はもうすっかりそうした株価の上昇スピードに慣れきっていた。
そうした中で平凡な一日が終わったとき、全国の証券会社の店頭で株価表示板を満足げに見上げる人々のうちの何人が、ニューヨーク株式市場がその日の株価を再び回復するのは、歴史に残る大不況と第二次世界大戦を間にはさむ二○年以上もの歳月を隔てた後のことであると想像したであろうか。
明日も株は上がるだろう。
しかし、もしかすれば下がるかも知れなかった。
じっさい、一九二九年六月から夏にかけて、アメリカの株式市場は一片の雲もない青空に駆け登ったようにみえた。
人々は前ニュージャージー州知事ストークスの「コロンブスもワシントンもフランクリンもエジソンもみんな投機家だった」(アレン、四四’三一五・ヘージ)という雄弁にうなずいた。
デュポンとGMの重役を兼務していたジョン・ラスコブは、『レディーズ・ホーム・ジャーナル』誌に「誰もが金持ちになるべきだ」という一文を寄稿した。
その中でラスコブは、もし毎週一五ドル節約して株に投資すれば、人はニ○年後には少なくとも八万ドルと、月約四○○ドルの投資収益を手にすることができるであろう、彼は金持ちになっているのだ、と説いた。
株価が上昇を続ける現状からして、ラスコブの計算には非のうちどころがないように見えた。
(もっともラスコブ自身は、賢明にも年中にGMの保有株一五万三○○○株のうち一五万株を売却していた。
)時代を詳細に観察した編集者フレデリック・ルイス・アレンは、その頃の株式市場の熱狂をこういう筆致で後世に伝えた。
「八百屋、運転手、鉛管工、お針子、もぐり酒場の給仕までが相場をやった。
反逆しているはずの知識人さえも、市場にいた。
規格化と大量生産が、アメリカ人の日常生活に与えた重圧を声高に慨嘆しながら、気がつくと、彼らも、その実りを喜んで刈り取ろうとしているのであった。
大強気相場は、全国民的熱狂になっていた」(アレン三五八’三五九ページ)。
アレンの目には、株式市場に夢を託すアメリカ人は、新しいフロンティアに挑む伝統的な開拓者に見えた。
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